勉強という観念すら私たち世代と違ってきている。
教室で授業を受ける、教えてもらう、という
私たちがイメージする旧態依然の学習スタイルと、
彼らのそれとは感覚的に違っている。
それを、ゆとり教育を受けてきたことによって学力が低下したから
とひと言で片付けてしまうのは、ちょっと考えが浅いかもしれない。
例えば、他とのコミュニケーションの取り方。
彼らは親が敬遠しがちな最新の情報端末機器を取り入れようとする柔軟性と
上手く使いこなす技術を楽々と覚えていく。
その時点で、出来ない親より彼らの方が“出来ている”わけだ。
大人が踏み込めないような学校裏サイトなるものが出現し始めたのは、
彼らが使いこなせているからであって、最近ではラインがその象徴だろう。
急激な時代の変化に見事に対応している子どもたち。
それが余りにも速すぎて、ついて行っていないのはむしろ大人。
子どもたちのコミュニケーション能力が落ちているのではなく、
すでにコミュニケーション感覚が違ってきているのではないだろうか。
そして学び感覚も。こちらが違和感を覚えるくらいに。
その彼らの変化を“落ちている”とするのではなく、敢えて“進化している”と
仮定するならば、私たちも何かを伝える際、十分理解した上で対峙する必要がある。
我々世代の流儀で何とか教え込もうと余計に力んだところで、いつまで
経っても噛み合わない。暖簾に腕押しである。
日頃、勉強の面倒をよく見ている熱心なお母さんほど、
旧態依然のやり方では上手くいかないと気づき始めている。
すでに感覚が違ってきている相手の心理をよく知るために、
今後はさらに深く掘り下げたコミュニケーションが必要になる。
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